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JAIMAとJSIA、「第3回分析機器・科学機器遺産」を決定

 日本分析機器工業会 (JAIMA)と日本科学機器協会 (JSIA)は、「第3回分析機器・科学機器遺産」を発表した。この制度は、日本国民の生活・経済・教育・文化に貢献した貴重な分析技術・機器や科学機器を文化的遺産として後世に伝えることを目的にしている。

 今回は16 件を認定、前回から一般の応募も受け付け、1施設もしくは 1個人から2件までとし、24件(19者)の応募があった。遺産認定にあたっては、二瓶好正選定委員長 (東京大学名誉教授)をはじめとする産・官・学の有識者6名によって厳正に審議され、選定された。いずれも当時、世界に誇る機器・技術であり、次世代に継承されるべき「科学のちから」として選定されたもの。認定された技術・機器は以下のとおり。

認定ナンバー/名称/申請者

36「光干渉式メタンガス検定器」理研計器

「光干渉式メタンガス検定器」理研計器 本器は、日本で最初に電気を利用して実用化された携帯型のガス検知器である。1937年のパリ万国博覧会には、日本発明品約40点中の一つとして出展された。当時、本器は商工省(現経済産業省)の炭鉱用防爆機器の国家検定制度の国内唯一の合格品であった。この検知器によって、ガス爆発が防止され、事故が減少するなど多大な貢献をした。また、現在でも国内外を問わず炭鉱など産業界で利用され、保安に寄与している。

37「ベックマン pHメーター」ベックマン・コールター

「ベックマン pHメーター」ベックマン・コールター 1934年にA.O.べックマンは、レモンジュースの酸度分析のために、真空管を使ったガラス電極法の装置を開発した。これが世界初のpHメーターである。pHメーターは1935年にアメリカで発売されて以降、世界中で35万台以上出荷され、国内外において科学技術の発展に貢献している。

38「第一号磁界型電子顕微鏡および関連資料」大阪大学総合学術博物館

「第一号磁界型電子顕微鏡および関連資料」大阪大学総合学術博物館 日本で最初に作られた磁界レンズを用いた加速電圧25kV、結像レンズ2段の透過型電子顕微鏡である。電子顕微鏡は、1931年にドイツのMax KnollとErnst Ruskaによって最初に試作された。この情報を入手した大阪帝国大学の菅田榮治助教授(当時)は1934年に研究を開始し、1939年に磁界レンズを用いた日本初の電子顕微鏡を製作した。
 本機はその第一号機であり、その後、性能向上のため電子銃の絶縁体などが改造されている。1941年に「かげろうの羽」、1943年に「蚕の化膿ウイルス」の電顕写真を学会に発表し、注目を浴びた。電子レンズには静電型と磁界型があるが、大阪大学では当初から現在用いられている磁界型を採用し、そのほか独自の技術開発を行って電顕を完成させた。設計図、ガラス乾板など電顕製作に関わる一連の資料も大阪大学総合学術博物館に保存され、日本の電顕開発史を探る上で重要である。

39「電子顕微鏡HU-2型」名古屋大学博物館

「電子顕微鏡HU-2型」名古屋大学博物館 HU-2型は日本で最初の本格的な磁界型電子顕微鏡である。本標本(NUM-Ta00037)は、1942年に日立製作所で製造された2台のうちの1台で、名古屋帝国大学の工学部研究室に設置された。製造当時の電子レンズはコンデンサレンズ、対物レンズ、投射レンズの三段構成だったが、実験研究のため投射レンズが追加された。電子顕微鏡には高圧電源、陰極加熱電源、レンズれい磁電源などが必要だが、それらの部分の多くは失われている。
 電子線の発生には鏡体内の電子線通路及びカメラ部を高い真空にする必要がある。そのため、真空ポンプとして、油回転ポンプと油拡散ポンプが使われている。これらのポンプは性能向上のため取り替えられているため、製造当時のものではない。
 HU-2型は1955年ころまで稼働し、医学部や理学部などとの共同研究を行うなかで、電子顕微鏡のノウハウが蓄積され、名古屋大学の超高圧電子顕微鏡(加速電圧300〜500kV以上)の研究開発につながった。

40「電子回折装置」名古屋大学博物館

「電子回折装置」名古屋大学博物館 本標本(NUM-Ta00043)は1940年、上田良二氏(1911~1997、名古屋大学名誉教授)の設計により、理化学研究所の工作室で製作された。当時の上田氏はすでに、回折装置の中に真空蒸着装置を組み込むことで、金属の結晶が成長する様子を世界に先駆け、「その場観察」に成功していた。1942年の理学部創設と同時に名古屋大学に赴任した上田氏は、この装置で亜鉛の煤の研究を行っていた。亜鉛煤の粒径を10nm以下にできることを確かめたその実験は、戦後の超微粒子研究や今日のナノテクノロジーにつながっている。その意味で、この装置は名古屋大学の草創期の息吹を伝える記念碑である。

41「pH計 HM-5(A)型」東亜ディーケーケー

「pH計 HM-5(A)型」東亜ディーケーケー HM-5(A)型は、国産初のサーミスタによる自動温度補償回路を搭載し、記録計への接続もできる低ドリフト(0.01pH/h以下)のpH計であった。同時にアルカリ用、高温用、有機溶媒用などさまざまなタイプのpH電極を開発し、多くの分野で利用され、当時の産業の発展に貢献した。

42「ゲーデ型油回転真空ポンプ」佐藤真空

「ゲーデ型油回転真空ポンプ」佐藤真空 ゲーデ型油回転真空ポンプGR-7は、GRシリーズの行程容積70ccクラスのモデルである。佐藤真空が1947年に1号機を開発してから、10年余の時間を費やして完成形にたどり着いた普及機である。排気速度35L/min、2段式で到達圧力は0.13Pa以下(マクラウド計測)と小型高性能を誇った。現存機は1960年製で、油脂類の蒸留等の用途で、2013年まで53年間余り現役で稼働していたものである。真空は、石油製品の蒸留、有機合成、光学薄膜製造装置など、日本の基幹産業にとってなくてはならない技術であり、その根幹には本機のような堅牢な国産真空ポンプの存在が不可欠であった。当時、油回転真空ポンプを最も多く使用した産業は電球産業であった。
 東京の品川は、明治末期に製造を開始した電球事業を行う企業が多数存在していた。品川の地場産業は太平洋戦争により大打撃を受けたが、戦後早々の1946年には、アメリカ向けクリスマスツリー用豆電球の輸出が再開された。このクリスマス電球の生産量は、1960年には3億個、1966年には4億個と爆発的に増加した。これは、国産真空ポンプの登場によるところが大きい。このように本機は、日本の電球の製造と普及に大きく貢献した。

43「デジタル粉じん計 P-1型」柴田科学

 「デジタル粉じん計 P-1型」柴田科学デジタル粉塵計P-1型は、1962年に世界で初めて光散乱方式を採用したデジタル粉塵計として開発された。光散乱方式の粉塵計の測定値は、実際の粉塵濃度と非常に高い相関関係があり、かつ、リアルタイムにその測定値を知ることができるという利点を有している。従来、大気中の粉塵測定は、粉塵をろ紙に捕集し、天秤で質量を測定しなければならず、その場で粉塵濃度を知ることができなかった。
 このデジタル粉塵計の開発により、リアルタイムに粉塵濃度を知ることができるようになり、高度経済成長に伴う労働衛生環境、室内環境などの悪化や、公害問題などの飛躍的な改善に貢献し、健康被害防止の一助となった。

44「自動血球計数装置 CC-1001」シスメックス

「自動血球計数装置 CC-1001」シスメックス CC-1001は、シスメックスが1963年に実用化に成功した国内初の自動血球計数装置である。その原理は血液細胞を計数するために、直径100μmの細孔と直径80μmの対向電極を微細加工技術により製作し、細孔の両端に設置された電極に高周波を加えた状態で、その細孔の部分を流体媒質中の微粒子が通過する際の微少な静電容量変化を検出するという独創的な技術であった。
 1852年に計算盤(細かいグリッドが刻まれたスライドグラス)を利用した血球算定方法が確立されてから、100年近く医療従事者は血球を顕微鏡で数えてきたが、CC-1001の実用化を皮切りに、自動血球計数装置が国内に広く普及するようになり、計測精度の向上・検査室の省力化、検査結果の迅速な報告に貢献した。また血球算定の自動化により、1961年に発足した日本の国民皆保険制度に伴う検査ニーズの大幅な増加にも対応が可能となり、国内の健康診断制度の確立・運営にも大きく貢献した。
 世界初の静電容量方式であるCC-1001でスタートした血球計数装置の技術は、その後大きく発展し、今日では最新モデルがシスメックスから170カ国以上に輸出され、世界の医療現場で活用されている。

45「HU-11B形 日立電子顕微鏡」東北大学 多元物質科学研究所

「HU-11B形 日立電子顕微鏡」東北大学 多元物質科学研究所 本透過型電子顕微鏡(以下TEM)は、1966年2月に東北大学科学計測研究所に設置された。1969年にTEMの格子分解能0.88Å(0.088nm)を記録し、当時、ギネスブックに掲載された。また、1971年にはウルトラミクロトームを用いて作製したアスベスト繊維の超薄切片試料の超高分解能写真から、同心円状や多重らせん状となっていることを解明し、アスベスト繊維の微細構造の解明に寄与した。
 日立TEMの商用1号機は、1942年12月の「HU-2」であるが、東北大学科学計測研究所には、1949年に日立HU-5(日立の商用8号機)が納入されており、本TEMは同研究所に1966年2月10日に出荷され、日立の累積1,000台目のTEMである。出荷の際には、日立那珂工場で記念式典が催された。
 HU-11形は1959年に発売され、1973年までの14年間にマイナーチェンジを繰り返し、国内外に累計731台納入されたロングセラー機である。さらには、1965年に日本で初めてTEM用WDX(波長分散型分光器)が付属装置として発売されるなど、科学技術の発展に寄与した。

46「走査型電子顕微鏡 JSM-2」日本電子

「走査型電子顕微鏡 JSM-2」 日本電子は、1966年に走査型電子顕微鏡(SEM)JSM-1を商品化して発売した。SEMは、微小領域の電位を観察することができることから半導体開発用研究ツールとして使われた(電電公社武蔵野研究所、三洋電機、東芝)。その後、SEMにより表面形状を立体的に観察できることが認められ、1967年に微細形状の観察に対応するために分解能を向上(50nmから25nmへ)したJSM-2を発売した。
 当初、SEMの試料ステージは、45°に傾斜されたものが使用されたが、複雑な形状を観察するために、試料を自由に傾斜・回転できるゴニオメータ型試料ステージを世界に先駆けて開発し、JSM-2に採用した。JSM-2はSEMが広い研究分野で使用されるようになる元を作った装置である。
 透過型電子顕微鏡の試料作製技術であるオスミウム固定法の応用により、生物組織を固定して観察できるようになると、医学生物学分野にも使用されるようになった。元素分析装置(EDS)がアメリカで開発され、それを取り付けることにより高倍率で試料を観察しながら、非破壊で微小領域の元素分析ができるようになると、さらに用途が広がった。
 JSM-2は、イギリスのCambridge Scientific Instrument社のSEMと競合できる性能があり、国内外に販路を広げた。これは海外の先進国で「日本製品は低価格、低品質」といわれていた時代に画期的なことであった。

47「IRA-1型 回折格子赤外分光光度計」日本分光

「IRA-1型 回折格子赤外分光光度計」日本分光 日本分光IRA-1型は、1969年に赤外分光光度計として小型・低価格でありながら操作性・メンテナンス性を大きく向上させ、一気に世の中に普及させた。光学系は、回析格子を3枚から1枚にし、光源を新たな特殊ニクロムに切りかえることで極限まで光学系のエネルギー効率を上げた。また、当時最先端の電子技術(トランジスタ技術)を全面に採用することで故障を抑えつつ、サ-ビスメンテナンスしやすい製品とした。
 この低価格で扱いやすい製品は、生産台数約1000台を記録し、赤外分光光度計の普及に貢献した。

48「クロマトパック C-R1A」島津製作所

「クロマトパック C-R1A」島津製作所 本製品は、独自の解析アルゴリズムを組み込み、これまで不可能であった解析を可能にするとともに、解析処理の効率を飛躍的に向上させた日本初のマイコン化分析機器(データ処理装置)である。従来のデータ処理装置は「ノイズとピークを間違える」「ベースライン変動が大きい」「ピーク分離が不充分な場合は解析精度が落ちる」という問題点を抱えており、分析装置や計測装置の性能を充分に発揮できず、その結果、分析計測装置を活用するあらゆる産業での研究開発に支障をきたしていた。
 同社は分析計測装置の利用者の使用状況と解析に対する要望を確認し、分析者にとって有効なノイズ検出やピーク分離が行えるよう、独自の解析アルゴリズムを開発した。さらに、長時間要していたピーク溶出時間や面積計算・定量計算の処理を高速化したいという、分析現場の要望に応えるため、さまざまな処理を瞬時に行えるよう、日本で初めて装置のマイコン化を本装置にて実施した。この結果、従来のデータ処理では不可能な定量計算処理まで自動化できるようになり、分析現場の迅速化、省力化、自動化が可能になった。
 さらに、従来は別々の機器であったアナログレコーダーと解析装置をひとつのデータ処理装置とすることで、アナログ記録のクロマトグラムとデジタル記録の含有量や分析条件などが同時に一枚の記録紙に得られるようにし、データ整理が容易でかつ見やすく信頼性の高いレポートが迅速に得られるようになった。この結果、科学者はC-R1Aを使用することで、分析装置、計測装置の測定結果が瞬時に手に入るようになり、日本国内外の研究開発を加速する一助となった

49「むつ鉄を使用した低バックグラウンド大型遮蔽体による放射化分析用γ線測定装置」東京都市大学

「むつ鉄を使用した低バックグラウンド大型遮蔽体による放射化分析用γ線測定装置」東京都市大学 この放射化分析装置は、GAMAシステムと名付けられ、正確なルーチン処理のため簡単な操作でγ線スペクトルの測定から解析までをオンラインで行うことができる。環境試料などで50元素以上の定量がこのシステムでできる。また、検出器周辺の遮蔽体は「むつ鉄」で構成され、1974年に製作されたものである。
 「むつ鉄」は、沈没した戦艦陸奥(むつ)から引き上げられた鉄の一部であり、現代の鉄と異なり放射性コバルトが含有されてなく、また、充分厚みを確保できることから遮蔽体としてふさわしい材質である。戦後の鉄材には高炉の耐火煉瓦の消耗を測定するため、人工の放射性コバルトが使用され、その一部が鉄材に混入し、バックグラウンドを上げ、微量な放射能測定には適さない。応募する大型遮蔽体の大きさは、高さ1195mm・幅690mm・奥行き700mmで、各面の厚さは鉛150mm(外側)とむつ鉄75mm(内側)から構成され、本邦で類をみない大きさと高性能の低バックグラウンド性を有している。遮蔽体内外でのバックグラウンドの比は、約1/100になっているため、超微量な放射能の測定に欠かせない装置である。
 遮蔽体内には、γ線検出用のGe検出器と井戸型NaI(Tl)検出器が設置され、一般測定法や同時計数法・反同時計数法を行い、特定核種の微量レベルをさらに低減することが可能になっている。
 本装置は、研究用原子炉の武蔵工大炉が稼働したときには、中性子放射化分析用として多くの成果を生み出し、その後は環境放射能測定用として、特に2011年東電原発事故以降は飛散した放射性物質や放射能測定用認証標準物質開発の放射能測定など、依然として稼働し、社会にその成果を数多く提供している。

50「中型分光器 HR320」堀場製作所

「中型分光器 HR320」堀場製作所 分散型スペクトログラフ/モノクロメータHR320は、仏Jobin Yvon社(現在のHoriba Jobin Yvon S.A.S)において開発され、1982年から2002年にかけて販売された。焦点距離320mmで、このクラスでは世界で初めてのツエルニターナ方式スペクトログラフ/ モノクロメータとして、 発 売当時まだメジャーではなかったマルチチャンネル検出器にも対応した。世界中で約1000台、そのうち約7割が日本で販売された。
 ツエルニターナ方式で、コマ収差を極限まで補正した光学系を採用することで、320mmの焦点距離でありながら、0.05nm(1200gr/mm 68mm × 68mmグレーティング使用時F/4.2)の分解能が得られた。これは、焦点距離500mmクラスの分光器の分解能に匹敵する。また、洗練された光学配置とホログラフィックグレーティングの採用で、10-5の低迷光もあわせて実現した。さらに、当時の大型分光器でもあまり採用されていなかった二つの入口スリット、二つの出口ポートが使える光学デザインとなっており、プラズマモニター、ラマン分光、蛍光分光、透過/反射率測定、吸収測定など、あらゆるアプリケーションに使用され、それぞれのアプリケーション計測の基礎的、標準的な分光器として、その後の計測機器開発にも貢献した。
 分光計測で、あらゆるアプリケーションに対応できる最初のスペクトログラフ/モノクロメータとして、その意義は大きい。

51「ガスクロマトグラフ質量分析計 GCMS-QP1000」島津製作所

「ガスクロマトグラフ質量分析計 GCMS-QP1000」 本製品は、日本初の汎用四重極型ガスクロマトグラフ質量分析計である。それまでは大型で高価格な磁場型質量分析計が主流で、一部の欧米メーカーから四重極型質量分析計が上市されていただけであった。GCMSは化学・医薬・環境・食品など、さまざまな分野・産業の研究開発に有効とされていたが、装置の価格・操作性がネックとなり日本国内では普及が進まない状況であった。
 同社は独自の機械加工技術・精密高周波電源設計技術・システムソフトウェア開発技術を結集し、当時としては画期的な、高性能(最大測定質量数1000m/z、分解能2M)で操作性のよい(小型設計、自動チューニング機能、マイクロコンピュータ搭載)本装置を開発し、日本国内における
GCMS普及に多大な効果をもたらした。結果としてGCMSを活用できるあらゆる産業における研究開発に寄与してきた。